2020年08月14日

「反訳者の脳」を手に入れて文字起こしを効率化

反訳者の脳」が育つと効率良く作業できるようになる――。文字起こしの熟練者の一人は、求められるスキルをこのように表現します。魅力的な響きですが、初心者の頃にできていたある種のことが苦手になるという「副作用」もあるようです。

 

反訳者の脳を手に入れる

 

目次

1. 初心者の文字起こしは逐語反訳っぽくなりがち

会話には通常、

  • 「アー」「ウー」といった単に母音として発せられる「音」
  • 「いわゆる」「要するに」など単語として成立してはいるものの、文脈の中では特に意味を持たない「口癖」

などがたくさん混ざっています。言語学の研究成果によると、それらは「会話の潤滑油」や「考えをまとめるための時間稼ぎ」のようなものと解されています。

 

私たちは、誰かと会話したり、誰かが会話しているのを聞いたりするとき、そうした「無機能語」や「意味のない単語」にいちいち目くじらを立てることはありません。話の筋道や文脈を追ううえで必要でない言葉は、ふだん無意識のうちに聞き流せているからです。

 

ところが、文字起こしをしなければならなくなった途端、人は「音声を忠実に文字の記録にとどめなければ」という意識が強く働いてしまうようです。とりわけ初心者のうちは、「無機能語」や「無意味語」をむしろ丹念に拾ってしまいがちになるのは、何とも不思議なことです。

 

音声を聞こえたとおりことごとく文字に起こしたものは「逐語反訳」になります。これは、当サイトのコラム「ケバ取り・整文・逐語反訳 読みやすい文字起こしはどれ?」でご確認いただけるように、極めて読みにくい代物となります。一言一句を漏らさず文字に起こしていくとなれば、当然、作業時間も余計にかかってしまうことでしょう。

 

初心者の文字起こしとは

 

2. 熟練者がスピードアップできる理由

文字起こしの初心者が音声を漏らさず聞き取ろうとするのとは対照的に、熟練者は耳と脳の間に「文字に残すべき音声」だけが通過できるフィルターのようなものが出来上がっているといわれます。音声を聞きながら、「無機能語」や「意味のない単語」を無意識のうちにふるい落とすことができるようになっているのです。それに加えて、誤読や誤解の回避に必要な言葉を過不足なく補うこともできる。そのスキルを、ある熟練者は「反訳者の脳」と呼んでいます。

 

自身の中に「反訳者の脳」が育ってきた人は、作業の効率が格段に上がるということです。結果的に文字起こしを収入の柱とすることも可能になるでしょう。

 

熟練者がスピードアップできる理由

 

3.「反訳者の脳」は誰でも手に入れられる

この熟練者によると、「反訳者の脳」は、決して特別な資質によるものではないそうです。なぜなら、冒頭に記したように、私たちは普段、誰かと会話するとき、相手の発する「アー」「ウー」などの音にわざわざ注意を払うことはないからです。

 

読みやすい文字起こしというものは、人の話を聞く時、頭の中で当たり前のように行っていることの延長にすぎない。だから、訓練すれば誰でも『反訳者の脳』を手に入れられる」というのが、この熟練者の見解です。

 

そのためには、「音と意味の再現」、すなわち

  • 音の正確性(聞こえた音声を忠実に文字に置き換える)―――――――――【A】
  • 意味の正確性(話者の意図を忠実に反映した、読みやすい文章にする)――【B】

をバランス良く両立することだと、この反訳者はいいます。

 

聞こえる音に忠実であっても逐語反訳では読みづらくなるため、無機能語や無意味語を削ります。また、文法的に必ずしも完璧ではない「話し言葉」をそのまま文字に起こすと誤読・誤解のおそれがある場合には、言葉を補足し、あるいは言い換えることになります。そうすると、元の音声からどんどん離れていってしまいますが、経験を重ねることで、【A】と【B】の中間地点へと近づいていく――。そんなイメージだというのです。

 

【A】の「音の正確性」と、【B】の「意味の正確性」との両立に関しては、当サイトのコラム「誤読を避ける文字起こしのやり方」でさらに考察します。

 

 

4. 逐語反訳が苦手になる「副作用」も?

一方、この熟練者によると、「反訳者の脳」を手に入れてしまったことで、別の苦労をした体験もあるようです。

 

文字起こしを仕事にしていると、「読みやすさは二の次でいい。とにかく音声を忠実に再現してほしい」と求められることも出てきます。法律的な問題が関わってくるときなど、文字起こしに携わった人の判断や解釈が入り込んではならない場合がこれに該当します。いわゆる「逐語反訳」の依頼です。

 

例えば、遺産相続問題や離婚問題などをめぐり、ICレコーダー等で録音された会話を、「あ、あ、いえ、うーんと、そ、それは」など、言い淀みや吃音、言い直しも漏らすことなく逐一文字化してほしいといった依頼を、当事者の代理人弁護士から受けることがあります。あるいは、そういった音声が法廷で再生され、調書に記録を残す際、担当書記官や事件によって「聞こえたとおりに文字にしてください」と注文されることもあるでしょう。

 

このとき、「文字に残すべき音声」だけが通過できるフィルターの備わってしまった「反訳者の脳」は、うっかりしていると、無機能だったり無意味だったりする音声を引っ掛けることができずに取りこぼしてしまうのだと、この熟練者はいいます。

 

熟練反訳者は無機能語や無意味語はとりこぼしてしまう

 

ですが、わずかでも取りこぼしがあると、それは改編とみなされ、証拠としての価値が損なわれるため、万全を期さなければなりません。そのためには、聞こえる音を全部文字にすればいいわけですが、この一見簡単そうな作業が、「反訳者の脳」を手に入れた熟練者にとっては、とてつもない難事となってしまう。結局、フィルターから漏れた「アー」「ウー」を丹念に一つ一つ拾い上げるため、いつも以上に何度も録音を聞き返すことになるのだそうです。

 

誰にでも始めることのできる「文字起こし」ですが、実は奥の深い技能であることをうかがい知ることのできる、興味深いエピソードといえるでしょう。